INTERVIEW
原 由子

1981年4月21日、シングル『I Love You はひとりごと』、アルバム『はらゆうこが語るひととき』のリリースから45年。原 由子が、2026年4月21日にソロデビュー45周年を迎えました。サザン・タイムズではそのアニバーサリー企画として自身の音楽活動を振り返り、原 由子が“はらゆうこを語るひととき”をおおくりします。
ソロデビューに先駆けて、サザンオールスターズとして初めてリードボーカルを取った「私はピアノ」から、“ボーカリスト”、“プレイヤー”、“ソングライター”としてそれぞれの転機となった楽曲とともに、原 由子のミュージシャンとしての45年に迫りました。また、これまで語られなかった、母親になってからのミュージシャンとしての変化について話す一幕も。音楽人としての原 由子の稀有な存在を語り明かしていきます。

「私はピアノ」――ボーカリスト原 由子の誕生
――サザンオールスターズの3rdアルバム『タイニイ・バブルス』(1980年)に収録された「私はピアノ」は、原さんが初めてリードボーカルをつとめた楽曲ですが、先日開催された『伊右衛門 presents 原 由子45th Anniversary LIVE「京都・鎌倉物語2026」』でも披露されていました。これまでの原さんのキャリアの中でおそらく一番多く歌ってきた楽曲になると思うのですが?
サザンのメンバーとして初めて人前で歌った曲なので、確かにサザンのライブはもちろん、ソロライブでも多く歌ってきた楽曲ですね。「私はピアノ」のレコーディングの時は、初めてリードボーカルを取るということでとても緊張したことを覚えていますし、自分がどんな声を出せるのかわからなかった中で、必死に歌ったという印象が残っています。今はその必死感も悪くなかったんじゃないかと思えるようになりましたけど、今回の45周年のライブではもうちょっと落ち着いて、楽曲を楽しみながら歌えたかなと思いますね。
――当時のサザンの状況を振り返りつつ、「私はピアノ」でのリードボーカルデビューをどう考えていましたか?
その前まではサザンでコーラスをやったりしていたくらいだったので、まさか私がリードボーカルを取れるなんて、全く思ってもいませんでした。振り返ってみると、1stアルバム『熱い胸さわぎ』(1978年)ではコーラスもぶっきらぼうな歌い方でしたけど、2nd アルバム『10ナンバーズ・からっと』(1979年)のあたりから変化があって、ハモることが楽しくなってきたんですよね。この頃はテレビ出演も多くて忙しかったから、レコーディングも真夜中に行うような大変な時期だったんですけど、ハモる時に声をダブルにすると面白い声になるなとか、ちょっと綺麗な声に聞こえるんだなとか、そういうことに気づいたりして、色々と工夫しているうちにハモる楽しさが自分の中で芽生えていったんです。そこから少し落ち着いて、バンドとして充電期間を持とうという話になった頃に出したのが『タイニイ・バブルス』でした。このアルバムは、メンバー自身も本来のミュージシャンにもう一度立ち戻りたい、音楽的にも実験的なことをやってみたいという意欲が増していた時期だったと思うんですよね。八木正生さんというジャズピアニストの方との出会いによって音楽的な視野を広げることができたりもして。歌謡曲的なエッセンスを曲に入れたりして制作を楽しんでいる中で、「私はピアノ」という楽曲が桑田(佳祐)から生まれたんだと思います。私は子供の頃、テレビで「シャボン玉ホリデー」を観て育ったので歌謡曲は大好きでしたけど、その後、洋楽に目覚めてしまったので、しばらく歌謡曲からは遠ざかっていた時期もあったんですね。でも、いざ「私はピアノ」を聴いて歌ってみたら、ザ・ピーナッツを聴いていた頃のワクワクした感覚が蘇ってきちゃって。あの頃は自分がザ・ピーナッツになったような気分で歌っていました。
――先程もお話していましたが、実際の歌入れの時は凄く緊張されていたとか?
ええ。そういえばレコーディングの時、なかなかうまく歌えなくて、何度も歌い直していくうちにちょっと涙が……なんてこともありました。いい歳して、お恥ずかしいです(笑)。『サザンオールスターズがやってくる ニャーニャーニャー』(1980年)のツアーの時だったかな……私は当時、体調を崩したりしていた影響からか、〈何もかも〉のファルセットの部分の声が出なくなって、そこを(松田)弘君とかみんながカバーして一緒に歌ってくれたこともあったんですよ。私の拙い部分をいつもメンバーが補ってくれて、お互いに支え合いながら何とか乗り越えていたなという思い出がありますね。
――当初、ご自分の声がお好きじゃなかったんですよね?
私自身はコンプレックスの塊で、自分の声も好きになれませんでした。だけど、コーラスをやっているうちに面白い声は決して悪いことじゃないって気が付いたし、「私はピアノ」を歌った時に八木正生さんからも「声が凄く良いね。どんどん歌った方がいいよ」って褒めていただいたのが何よりも嬉しかったんです。それが自信に繋がっていったと思います。
――今、ご自身の声はお好きですか?
好きと言うか、今はこの声で良かったって思っています。ただ歌となると、まだだなって思うことが多いですね。発声方法とか、今でも発見があったりして、勉強中です。でも、この間、ソロライブの最終日に観に来てくださった竹内まりやさんから「ミラクルボイスだね」って言っていただいて。
――ミラクルボイス!! まさにピッタリですね。
あははは……まりやさんは優しい方だからそういう言葉を投げかけてくださったんだと思うんですけど、それはとても嬉しかったですね。
――「私はピアノ」が世に出たことによってボーカリスト原 由子が誕生し、その後、サザンのメンバーの中で最初にソロアルバムをリリースすることになっていくわけですが……。
「私がピアノ」がきっかけとなって、周りから「ソロアルバムを作ってみたら?」って話があがってきて、あれよあれよという間にソロデビューさせていただいたという感じでした。
――自ら手を挙げてソロの世界に飛び込んだ訳ではないですからね。
ええ。自信もなかったですし……。でも桑田が「やろうよ!絶対大丈夫だから!」って背中を押してくれたんですね。桑田から励ましてもらい、全面的にサポートしてもらったおかげで、なんとかソロ活動できたと思っています。それに、毎回ひとつのプロジェクトをやり遂げると、「これだけできた。もう十分、幸せです」みたいに、満足してしまうんです(笑)。そのたびに周囲の皆さんからありがたいことに「もっとやろうよ」って言っていただいて、それで「もう少し頑張ってみよう」って感じで。思えば、1stアルバムのレコーディングの時から周りの後押しで支えられていましたね。斎藤(誠)君を始め、大学時代のサークルの後輩たちがHARABOSEというバンドを作って頑張ってくれたりもして。とにかく桑田がプロデューサーとして全編にわたって駆けずり回って、色々準備して曲をいっぱい作ってくれたのが本当にありがたかったし、私自身もそれが原動力になって頑張れたと思います。
ボーカリストとしての転機
――ここからはボーカリストとして、プレイヤーとして、ソングライターとしてのお話を伺いたいと思います。が、その前にひとつ。ソロデビューを飾ったはいいけれど、実は波乱の幕開けだったんですよね? 1stシングル「I Love Youはひとりごと」(1981年)は歌詞が猥褻だということで、放送禁止の憂き目にあってしまうという……。
そうなんですよ、衝撃のソロデビュー!(笑)。とっても素敵な曲を作ってもらったんですけど、歌詞の内容については、当時は深く考えていなかったんですよね。そしたらスポーツ紙に「原 由子 モーテルを歌う」みたいな見出しがついて記事になっちゃって。「ん? 私、そんな大変なことを歌ったっけ?」みたいな感じで、それぐらい全く自覚がなかった。逆に、今はちょっと歌うのが恥ずかしいです(笑)。
――ちょっと主題とはズレてしまうかもしれませんが、その辺のお話を少し聞かせてください。放送禁止になったことに抗議して、原宿のビルの屋上で突然のライブを行いましたよね。まるで「Get Back」などを演奏したことで知られるザ・ビートルズの『ルーフトップ・コンサート』のような感じで、警官が押しかけて大騒ぎになりました。あれがストリートライブのはしりになったという話もありますが。
名目として私たちは“放送禁止への抗議ライブ”というイベントにしてしまったんですけど。あのビルの屋上でのライブは憧れのビートルズへのオマージュってことで、楽しんでいる部分もありました。今では不可能ですけど、ゆるい時代でしたのでお許しを。あの時、サザンのメンバーも、参加してくれた斎藤君も、スタッフも総出で女装して、原宿の歩行者天国を行進したりしたんですよね(笑)。
――今だったら考えられないことですね(笑)。で、話を戻しますが、そんな衝撃のソロデビューを飾った原さんが、その後の様々な活動をしていく中でボーカリストとしての転機を迎えたのはいつですか?
ソロデビューしてからも歌うことの楽しさは感じていたんですけど、転機になったのは「じんじん」(1991年)ですね。3rdアルバム『MOTHER』(1991年)の先行シングルとしてリリースした曲なんですが、「じんじん」は今までとは違った歌い方を楽しめたというのが嬉しかったし、自分の中での世界が広がった気がしますね。
――GSサウンドのエッセンスを散りばめた歌謡ビートポップな楽曲と、それを歌うやさぐれ感いっぱいの原さんのボーカルが印象的でした。原坊節の新たな側面というか。
あのやさぐれ感が楽しいんですよ(笑)。
――当時のインタビューで、確か「美空ひばりさんのコブシをお手本にした」というようなことを仰ってましたね?
そうです、そうです。もちろん美空さんのように上手には歌えませんけど、お手本にしましたね。今でも「じんじん」を歌う時は美空さんになった気分で楽しんで歌っています。
――美空ひばりとジャッキー吉川&ブルーコメッツの「真赤な太陽」みたいなイメージ?
そうですね。そういうイメージも歌と一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。
――これまでサザンでもソロでも、原さんがリードボーカルをとった楽曲はとてもバリエーションに富んでいますよね。そういう多彩な楽曲を巧みに歌い分けているのを聴いていると、こちらも様々に歌の世界の映像が浮かんだりしてきます。
ありがとうございます。歌の登場人物になりきるのが自分でも楽しいんですよね。例えば、サザンの「ナチカサヌ恋歌」(1990年 9thアルバム『SOUTHERN ALL STARS』収録)だったら、琉球紅型柄の装束を着た沖縄の女性の気持ちをイメージして歌ったり、「恋は、ご多忙申し上げます」(1983年)では、アイドルになった気分で振りを付けて歌ったり。「うさぎの唄」(1981年)だったら民謡歌手とか、そういうふうに楽曲のイメージを膨らませながらなりきって歌ったりしていますね。だから、色々な人物を演じ分けられるのが楽しい。それに声の出し方も楽曲によって変わりますから、そういうことも自分で楽しんじゃっているところはありますね。
母親だってラブソングを歌ってもいいじゃないか
――プレイヤーとしてはいかがでしょうか? 以前からサザンのライブで原さんを見ていると、男前のプレイがカッコいいなといつも魅了されています。サポートメンバーの片山敦夫さん(Key)とのバランスも常に考えていると以前話されていましたけど。
男前のプレイって言われると嬉しいですねぇ(笑)。でも、ソロの時は、プレイよりも歌に専念することが多いんですよね。今回の45周年のライブでは「スローハンドに抱かれて (Oh Love!!)」のエンディングで「いとしのレイラ」のピアノコーダ部分を弾いたりもしましたけど、全体的には片山君がメインキーボードをバッチリ弾いてくださったので、私は歌に集中できて、気持ちよく歌わせてもらえました。確かに片山君とはサザンの時を含め、常にバランスを考えながらプレイしていますね。彼とはもう長年一緒にプレイしているから阿吽の呼吸的なところもあるんですけど、それは片山君が私に合わせて素晴らしい演奏をしてくれるから成り立っているわけで。私がこういうふうに弾けたらいいのに、と思うようなプレイを片山君はサラッと演ってしまうので、毎回凄いなと尊敬しているんですよ。
――先程、ソロだと歌に専念することが多いと仰ってましたけど、レコーディングでは?
サザン以外でのプレイとなると、1枚目のソロアルバム『はらゆうこが語るひととき』(1981年)ではHARABOSEとしてキーボードも演奏しましたけど、2作目の『Miss YOKOHAMADULT YUKO HARA 2nd』(1983年)は、違うアプローチでということで、村上“ポンタ”秀一さんを始めとする当時の名だたる一流ミュージシャンに参加していただいてアルバムを完成させたんですよね。自分で作った曲もありますけど、桑田が名曲をいっぱい作ってくれて、桑田佳祐&Head Arrangersと称してミュージシャンの皆さんとアレンジもしてくれたので、自分はボーカリストに徹することができました。素晴らしいミュージシャンの皆さんとレコーディングできたことはとっても良い経験になりました。次の3枚目の『MOTHER』でも、桑田が曲作り、そしてプロデュースをしてくれたんですけど、そこに小林武史さんが加わって、アレンジや演奏もしてくださったので、ここでも私は歌に専念することができたんですね。考えてみると『MOTHER』は、私自身一皮剥けたというか、母親になったこともあってちょっと強くなれたと思うんですよ。
――ミュージシャンとしての矜持に変化があったんですね?
ええ。やっぱり、ラブソングを歌うことに抵抗がなくなったっていうことですかね。母親だってラブソングを歌ってもいいじゃないかっていう気持ちになったことが大きかった。そこから少しずつ視野を広くして子供に対する愛だったり、平和を希求する上での愛だったり……。そういうテーマのラブソングを歌いたくなっていった結果、歌の世界が広がっていったんだと思います。
――ラブソングは決して男女間だけのものじゃないですからね。
そうなんですよね。振り返ってみると、私たちは'82年に結婚をしたんですね。その辺りから、ちょっと私小説的な雰囲気のラブソングが歌いにくくなったりして。短い期間ではありましたが、ちょっと照れくさいなと思ってしまったこともありました。そういうことが『MOTHER』のレコーディングの時に全て吹っ切れたというか……。“音楽は音楽なんだから、好きに歌っていいんだ”って気持ちになれたんですよ。それに、日常は子育てに追われて大変だからこそ、歌の世界では恋の世界に生きたりするのが逆に楽しかったし、それが活力にもなりました。
――そしてソングライターとしての幅も広がった。
はい。『MOTHER』に収録されている「夜空を見上げれば」は、子供ができたからこそ、作詞家として描けた世界だったと思います。あの当時、湾岸戦争が始まって……今も似たような世界情勢ですけど……。そういうふうに世界が不安な雰囲気になっていた時に、子供たちを寝かしつけながら、ふとカーテンを開けると綺麗な夜空が見えたんです。大切な人と夜空を見ながら「星が綺麗だね」って言っていられるのはなんて幸せなんだって感じて。その時の子供への愛というのかな……子供たちのためにもこんな静かな世界が続いてほしいという想いで作ったんですね。これは初めて母親としての目線で作った曲だと思います。
――話が前後してしまいますが、ご出産後しばらく音楽活動を休まれていましたけど、1987年に4年ぶりのソロシングル「あじさいのうた」で復帰されましたよね? そこはキャリアとしてのターニングポイントになるのかなと。
ええ。「あじさいのうた」は転機だったと思いますね。あの頃、子供が出来てしばらく音楽から離れていたし、子育てしながら復帰するのは無理かなあと思っていたし……。1年以上ピアノにも触っていなかったので、このまま引退してもいいかなとまで思っていたんですよ。でも、そんな子育てに夢中の時期に、「曲を作ってみませんか?」とお話をいただいて、改めてピアノと向き合ってみたら、もう涙が溢れちゃって。私には音楽が必要なんだって、改めて思わせてくれたのが「あじさいのうた」なんです。だから、私自身とっても思い入れのある曲ですね。
音楽ってタイムマシーンのようなもの
――創作する時に用いる楽器は?
主にピアノですけど、ギターでも作りますよ。例えば、デビューシングル「I Love Youはひとりごと」のカップリング「しっかりJohn-G」という曲はギターで作ったんですよ。ピアノで弾いていると、自分の好きなコード進行に行っちゃいがちになるんですけど、ギターだと思いがけないコードにたどり着いたりすることもあるのが面白くて。2022年に出したアルバム『婦人の肖像 (Portrait of a Lady)』に収録した「Good Times~あの空は何を語る」もギターで作りました。高校生の時に好きだったCSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング)のオープンチューニングの雰囲気が出したくて曲作りしたんです。レコーディングでは、斎藤君にこういうふうに弾いてくださいってお願いしたんですけど、凄くかっこいい演奏で、改めてギターで作って良かったと思いましたね。『婦人の肖像 (Portrait of a Lady)』はアルバム制作において転機になった作品でもあるので、制作していてとても楽しかったです。
――というのは?
制作時間をたくさんいただけたこともあって、初めて自分で好きなようにイントロを考えたりとか、色々なアレンジに挑戦できたんです。桑田がソロツアー中だったので、曽我(淳一)君に新たな音楽的パートナーとなっていただき、いろいろ相談しながら多様なサウンドに挑戦しました。例えば「オモタイキズナ」では、エンジニアの宮沢(竣介)君と相談して、エコーも色々な使い方を試してみたり、曽我君も色々な音を重ねてくれたりして、とても好きなサウンドになっています。ツアー中の桑田が、合間を縫ってスタジオに来てくれて、曲も作ってくれたし、アレンジもしてくれたのも、本当に有り難かったです。ツアーが終わってからは中心となってアルバムを仕上げてくれました。『婦人の肖像 (Portrait of a Lady)』はオリジナルアルバムとしては4枚目にあたる作品で、65歳の時に作った作品ですけど、制作面で自分がちょっと成長できたんじゃないかなと思えたアルバムでした。って、遅いですけどね(笑)。でも、今でも勉強になることが多いのも事実です。今回のライブでもアレンジ面などで色々と勉強になることも多くて。だから、自分はつくづく発展途上だなって思いますね。今、年齢のことを言ってしまいましたが、歌っている時は歌の世界をイメージしながら歌っているでしょ。だからその時は年齢なんか忘れているんですよね。
――確かに。ライブを観ている我々観客も年齢のことなんて考えていませんから。歌の世界にどっぷりと浸っています。
今でも「少女時代」(1991年)を歌うたびに、当時の自分に戻るというか、色々思い出して涙が出そうになったりするんですよ。だから、サザンの「風のタイムマシンにのって」(2025年)じゃないですけど、音楽ってタイムマシーンのようなものだなって思うんです。歌を歌っても、歌を聴いても、その時の自分に戻れるっていう。だから、今回のライブのMCでも「年齢のことは忘れて、(胸キュンの)ラブソングをいっぱい歌います」って宣言していたんです(笑)。とはいっても、現実に戻ると、69歳の女性がラブソングを歌っているってヘンかな、大丈夫かなと思ったり……って、また年齢のことを言っちゃいましたけど(笑)。
――ヘンではないですよ! 年齢とかを超越したところに原 由子というアーティストは存在しているというか。
ありがとうございます。
――原さんご本人はとても努力家で真面目な方ですけど、そういう面を表に出さずに、ひょいひょいっとやってのけちゃう小気味良さもあって、観ていてワクワクさせてもらっています。そういう原さんが持っている潜在能力を表に引き出した桑田さんはさすがですね。
最初は「ええ~やらなくていいよ~」って遠慮しちゃうんですけど、やると覚悟を決めたらスイッチが入って頑張っちゃうところはあります(笑)。ソロデビューさせていただいたのも桑田の力があってこそですし、いつも支えてもらって有り難いなと思っていますね。
――改めて言うまでもなく、可愛らしさとパワフルさと軽妙さが混在している原さんは稀有な存在だと思います。45年のソロ活動を通して、原 由子というミュージシャンを今現在の立脚点から見て原さんご自身はどう捉えていますか?
サザンという母体があるからこそ安心してソロ活動ができるんであって、それが一番大きかったと思いますね。サザンの時はキーボードプレイヤーとして集中できる環境がありますし。ソロ活動では期間は空いてしまっているけど、そのたびに色々なミュージシャンと出会ったり、カバー作品を発表したり、新しい風を入れてやってこられて、本当にありがたかったですね。アルバムの合間にソロシングルをリリースできたのも、桑田がいい曲を作ってくれたおかげだし……。ホントに、恵まれていると思います。振り返れば、いつも桑田やミュージシャンの方々、スタッフ……色々な方から支えてもらい、環境を整えていただいてライブもできたり。細々とでも45年間続けてこられたのは、奇跡的なことだと思っています。そして何よりもファンの方々からの声援が私の力となって続けてこられたことも大きいですね。あたたかいメッセージをいただいて、何度も励まされました。この場を借りて皆さんに心より感謝申し上げます。
――さて最後に音楽人としての原 由子さんの今後は?
今は、創作したいという気持ちが盛り上がっているので、カッコいいフレーズとかを想いついたらボイスメモに入れておこうかなと思っているんですよ。日の目を見るかはわからないけど、ソングライターとしてまだまだ色々と挑戦したいですね。今回、みんなからパワーをいただきましたから、それを無駄にすることなく、体調を整えながら、末永く音楽を続けていけたらなと思います。
取材・文=大畑幸子














