INTERVIEW
-桑⽥佳祐 インタビュー-
今となっては“⾊んなやり⽅があっていいんじゃないの”と
聞き⼿=⼩⼭守
サザンオールスターズの約10年ぶりとなるニュー・アルバム『THANK YOU SO MUCH』が完成した。昨年6⽉にアナウンスされた時点では“この冬にリリース”ということだったが、制作がやや⻑引いて今年3⽉に延期。そのため今年1⽉から始まっている全国ツアーと本作のレコーディングが重なってしまったわけだが、それも納得できるような渾⾝の仕上がりだ。
多彩なアプローチの楽曲が並び、珠⽟のメロディが躍動し、実験的な試みも⽬⽴ち、デビュー以来、47 年にしてさらなる新しい姿を⾒せた傑作といえるだろう。ツアー中の桑⽥佳祐にメールで話を聞くことができた。
ライターの⼩⼭守と申します。ツアー中のお忙しいなか、どうもありがとうございます。
メール・インタビューという形になりますが、しばしお付き合いいただければ幸いです。最新作『THANK YOU SO MUCH』の完成、おめでとうございます。制作に約1年半を費やしたわけですが、完成した現在の率直な⼼境からお聞かせください。⻑かったでしょうか、短かったでしょうか。
「⼩⼭さん、ありがとうございます。この度はこちらこそ御苦労おかけ致しますが、何卒宜しくお願い申し上げます。私はレコーディング・スタジオで作詞作曲をしたり、楽器を触ったり、歌⼊れ等をすることが⾳楽活動の中で最も好きな作業であります。またエンジニアやオペレーターの皆さん、サザンのメンバーを含めたミュージシャン達との“トライ&エラー”の時間帯が、何より⾄上の喜びと感じておりますので、いつか誰か(例えばディレクターの廣⽥君)が⽌めてくれないと、いつまでもズルズルとスタジオ通いが続いてしまう事も多々ございます。“締め切りあってこその⽣業”という尊い⾔葉に、改めて気付かされ我に返るまで、今回も⻑く充実した時間と環境を与えて頂いた事に深く感謝しております」
そうして完成した『THANK YOU SO MUCH』ですが、ロック、ディスコ、エキゾチック、ファンク、ラテン、ブギ、ブルース、歌謡曲、フォークなどの要素が混在していて、メロディ・タイプも開放感のあるものから哀愁ものまであり、かなり多彩な仕上がりですね。前作『葡萄』(15年)がややシリアス寄りの作⾵だっただけに、サザンオールスターズ本来のヴァラエティ感や振り幅の広さが戻ってきたように思えます。制作にあたって、そこは意識されていたのでしょうか。そういう作品を作りたかった、というコンセプト的なものはありましたか。
「ありがとうございます。前作『葡萄』から10 年ですが、⾔わずもがな時代は変わり、こんなアタシも来年古希であります。振り返ればこの“ワンディケイド”は、お陰様でアタシの⾳楽⼈⽣の中で⼀番恵まれていた時期だったかもしれません。何かにつけて“ハチャメチャ”だったあの頃(特に80〜00 年頃?)とは打って変わり、ガバナンスだのコンプライアンスだのといった考え⽅が主流となり、その波に乗ってかどうかはわかりませんが、志の⾼い優秀な若いスタッフ達が、今やサザンの活動をしっかりと⽀えてくれております。そんな彼らが、今や好々爺となったアタシの過去の失態や悪事に気付いていない事もコレ幸いとばかり、この10 年間は⾊々な意味で冷静に“⾳楽”や“仲間”と向き合うことが出来たと思っています」
ありがとうございます。今回、アルバムで最も新鮮だったのが<ごめんね⺟さん>と<史上最恐のモンスター>で、どちらも桑⽥さんのラディカルな部分に特化した楽曲だと思います。まず<ごめんね⺟さん>は、サウンドから⾳を抜きまくったリミックス後のような妖しい宅録ファンクですし、ヴォーカルもウィスパー気味にヒソヒソと歌っています。ドラッグ密売を思わせる歌詞もエグいもので、かなり振り切った試みだと思います。桑⽥さんは<やさしい夜遊び>で、この曲のアレンジを“遊ばない?”と⾔って作ったと⾔われていましたが、そういう“遊び”の気持ちが強かったのでしょうか。
「今回の『THANK YOU SO MUCH』も、キーボーディストの⽚⼭敦夫さんの、⼼技体による全⾯的バックアップの下、完成にこぎ着けることが出来ました。13 曲のリズム・トラックと幾つかのヴォーカル⼊りトラックを録り終えた段階で、“あと、ちょっとだ”という疲労感とも⾼揚感ともつかぬ思いに突き動かされ、⽚⼭さんとオペレーターの曽我淳⼀さんに、“最後の1曲は遊んじゃおうよ!!”と、他⼈を⿎舞するフリをしながら、責任を丸投げにしました。いつものように、アタシはまずクリックを聴きながら⽣ギターを弾いて“仮歌”を録りました。マイク⼀本だったので、それに被らないようにギターをそぉっと弾いていたら、ヴォーカルまでウィスパーになってしまいました。楽曲構成はA、B、Cというもの。いや、実にカンタン。弾き語り出来そう。アタシ⾃⾝はギターで作りながら、ゾンビーズみたいな60年代のR&B⾵をイメージしていました。なんとなく曲の流れを決めたあと、“丸投げされた”⽚⼭さんと曽我さんのハートに⽕が付きました。あ、⼆⼈の背中がメラメラと真っ⾚に燃え上がっていく!! 次の⽇、ギターの斎藤誠さんも来て、更に⽕を焚べてくれて。スタジオ内はミュージシャンたちの汗と熱気で溶鉱炉の如く⼤炎上でございます。蛇⾜ですけど、最初AメロはEm7とA7の繰り返しだったんです。でも、このパターン世の中に⾮常に多いから…、ドアーズ<ハートに⽕を付けて>じゃないけど(あれはAm7とF♯m7だけど)、なんか“ありきたり”な感じを打破しようとして思い出したのが、アメリカ<名前のない⾺>のEm7とF♯m7ってやつでした(俺の⻘春だ!!)。で、⽚⼭さんのメロのベース・ラインがミー・ソ・ファ♯!!ってなったわけだけど…とにかく、あんたたちホントすげえよ」
ポップ・ミュージシャンの“サガ”としか⾔いようがない
ありがとうございます。もうひとつの<史上最恐のモンスター>も実験的サウンドの曲で、歌詞が“嘆きのニュース”“ウクライナ”など世界情勢の悪化を取り上げ、それで“⼈間が⽣んだモンスター”に⾄るわけですが、結局のところ“史上最恐のモンスターとは⼈間そのものである”と思えます。サウンド⾯も含めて、この曲で表わしたかったものとはなんでしょうか。
「⼩⼭さん、アタシもその通りだと思います。幼い頃、ホラーやスリラー映画を観た後、ひとりで夜の“便所”に⾏けなくなったアタシに向かって、昭和2年⽣まれの⽗は“世の中で⼀番怖いのはお化けじゃなくて⼈間なんだよ”と笑いながら⾔ったものです。⽗親だけじゃなく、祖⺟や親戚からも戦争体験は何度か聞かされたし、⽣きることと死ぬことが隣り合わせにある⽣活、時代がどれほど過酷だったか、その様⼦を我々は寝物語の中でぼんやりと想像していました。
ところで、“⾃然と⼈間の調和”なんて⾔い⽅があるけど、落語に<饅頭こわい>ってあるでしょう。饅頭は別にして、江⼾の町⼈だって嫌いなものは、蛇、カエル、ゲジゲジ、⽑⾍だったわけですね。そう、元来⼈間は⾃然や⽣き物が全然ダメなのよ。共存しようなんて発想はこれっぽっちも無かった…かもしれない。“調和…”云々はいつから始まったんでしょうか? さすがにこのままじゃ地球環境マズいという事になったんだろうね。
こないだアメリカが<パリ協定>離脱したって。ドゥ・ユー・アグリー? 考え⽅の⽭先をちょっと変えるだけで、何が正論になるかわからない世の中だ。そして、いつの時代も正義のために戦争をやっている。それぞれの“主義”“主張”“⽴場”“思惑”があり、戦争、いや⼈殺しで⾷っている⼈たちがいる。
曽野綾⼦さんの昔のエッセイを読んだんです。“アタシたちは、いい事もたまにするけど、悪いことをたくさんして⽣きている”って。アイ・アグリー。基本的にアタシだって⾃然は⾒るのは好きだが、⾍やケダモノのたぐいは嫌いだ(だからキャンプなんて絶対⾏かねぇ)!!
クソ寒いのも暑いのもまっぴらだよ。もう地球出ようかと思ってる。⼈間と⾃然の調和ってそもそも難しくね?
饅頭が⼀番…じゃなくて⼈間が⼀番怖い」
<神様からの贈り物>に込められた想い
ありがとうございます。さらに<Relay〜杜の詩><盆ギリ恋歌><歌えニッポンの空>のいわゆる三部作には、共通テーマとして“故郷に対するリスペクト”や“感謝の気持ち”というとてもポジティヴなメッセージも感じられます。これも近年の桑⽥さんには、聴き⼿に前向きな姿勢を促して活⼒を与えるような、“ポップスの⼒”としての“使命”のようなものを感じるのですが、そういう意識はありますか。
「若い頃<茅ヶ崎に背を向けて>なんて曲を作った時は、とっととズラかって東京出るのに憧れてましたけど。“こんな⽥舎で燻(くすぶ)ってるのはまっぴらだ”、そう思ってましたよ。
でも、デビューして47年。満州から引き揚げてきた⽗親が、苦労して仕事を⾒つけて辿り着いた場所が茅ヶ崎で良かったと⼼から思ってます。気がついたら、⽣まれ育った街の歌を歌って、⾷わせてもらって⽣きている。こんな幸せありません。ビートルズのʻIn My Lifeʼはアタシにとっての茅ヶ崎だし、ʻStrawberry Fields(Forever)ʼは姉と遊んだ原⾵景なのです。もし両親姉友達がいなかったら、今頃何処で何をしていたかしら? 多くの⽅々に感謝です」
ありがとうございます。アルバム13曲⽬の<神様からの贈り物>ですが、この作品のクライマックスであり最重要曲ではないかと思います。おそらく⽇本国内のポップスを作ってきた⽅たち(個⼈的には筒美京平や阿久悠をイメージします)への敬意を⽰したものだと思いますし、なかでも“あの歌と出会い、あなたがいれば、何も怖くない”という⼀節はパワー・ワードだと思うのですが、この曲に込めた想いをお聞かせください。
「昭和の中ごろ、つまりアタシが⽣まれた頃は“⼈⽣50年”と⾔われてました。
美空ひばりも⽯原裕次郎も52歳、エルビスは43歳、ジョン・コルトレーンは40歳でお亡くなりになっている。令和の今と単純に⽐較することは出来ませんが、明らかに⼈⽣のスピード感や⼈々の⽣き様は違っていたんだろうと思う。
また茅ヶ崎の話になりますが、1965年に“茅ヶ崎パシフィック・ホテル”が海沿いに建った。
⾵致地区という場所にも関わらず、夏の⻘空をバックにそびえ⽴つ⽩亜の城のような勇壮な佇まいは、我々茅ヶ崎市⺠の憩い…いや、だいぶ背伸びしないと辿り着けないハイソな社交場であり、“天空のオアシス”たるものでした。
東京の芸能⼈、⽂化⼈がこぞって夜な夜な集い、我々庶⺠にとっても⼤きな憧れの場所。
加⼭雄三、ヴェンチャーズがライブを演り(当時ライブとは⾔わなかったが)、映画やテレビの撮影が頻繁に⾏われ、アタシは駐⾞場でかまやつひろしさんの⽊⽬があしらわれたミニ・クーパーを⾒つけて痛く感激したものでした。
“無料招待券”で友だちと⾏くプールは塩素の⾹りも垢抜けて感じた。実はその頃、海で泳ぐ事⾃体に凄く抵抗、困難があったのです。茅ヶ崎あたりの海⽔浴場は、“⼤腸菌騒ぎ”で遊泳禁⽌が相次いでいた。船で沖に⼤量の“し尿”を廃棄しに⾏くとか、⾼度成⻑期とはいえまだまだ排⽔管や汚⽔処理の整備が不充分な時代でした。
退屈だった我が街にもなんとなく“イケイケ”の波がやって来た…ほんの束の間でしたけど。
やがて“◯◯(お太りになるみたいな意味)経営”が祟り、その栄華は短命に終わります。
いと儚いものだと、⾼校⽣ながらアタシもモノの哀れを知った。
ところで、なんの話でしたっけ?
そうそう。
“条例違反”を承知で建てられた、選ばれし⼤⼈の社交場、⼦供がタダ券握りしめて⾏くリゾート・プールはいつしか夢や泡沫と消え、70年代に⼊るとまた街に静寂が戻ってきた。
いや、また何もない⽥舎に戻ってしまったのであります。
その頃から、⽗親はアタシの将来を案じ始めた。
学校はサボる、成績は下がる⼀⽅、無気⼒でだらしない⽣活、時折友達が部屋に来てはタ◯コをふかしながらレコードを聴いたり歌ったり。
“お前、⾼校なんて辞めてさ、⾃衛隊でも⼊れよ”
いつも⼼配かけたこと、今では本当に済まなかったと思っています。
その後、こんな“穀潰し”を親の⾦で⼤学にまで⾏かせてくれたんだから⾜など向けては眠れません。
両親に感謝すべきは、ふたりとも映画や⾳楽が好きだった事。
⽗親は満州鉄道の下請けである“満映”で働いたよしみで、あの⼩津安⼆郎監督の下でも働き、茅ヶ崎に映画館⽀配⼈の職を得たらしい。⺟親は、⽗が経営する⼩さなバーのマダムとして夜は勤めに出た。
姉は若くして⾃⽴していました。⼣⽅以降ウチにいるのは⾼校⽣のアタシひとりぼっち。
テレビ、ラジオ、レコード、雑誌、ギター弾く、時々受験勉強みたいな毎晩のモラトリアムなルーティン。
とにかくやる事なす事すべてが中途半端なアタシは、こんな家庭環境の下で⼈間形成されたのでしょう。
“あの歌と出会いあなたがいれば”というのは、両親や姉に向けての思いも含まれています。
軽々に聞こえるとは思いますが、“⾳楽はどんな時でも⼼の痛みを癒してくれる”。
その気持ちはいつも変わらずアタシの中にあります。
個⼈的には2010年に⼤病をしました。また翌年の“東⽇本⼤震災”があり、2度⽬の敗戦などとも⾔われた。以来⽇本⼈の⼼は折られたままだと思っています。その後も感染症によるパンデミックや、未だに復興の⾒えない被災地で御苦労されている皆さんがいる。
アタシも含めて、平均年齢“古希”にならんとするサザンオールスターズは、芸能⾳楽の先達やそれを⽀えて来られた⽅々のお陰で今⽇ここにいるわけですね。
だからそして明⽇も頑張ろうと思えるのです。
…⼩⼭さん、話がクドいし周り道し過ぎて本当にごめんなさい(汗)」
〔Eメールでのインタビュー〕
完全版はレコード・コレクターズ4⽉号で
お楽しみください!
